記憶の檻の向こう側から、それでも貴方は彼を呼ぶ。
ひたり、と顎を伝う汗。ひとしずく、またひとしずく。
あの頬の白さにどうして溶けゆかないのか不思議だ。少し伸びた髪が濡れて、漆黒の色がいつもより艶めいて見える。何度目かで鬱陶しそうに同じ白さの指先がしずくを振り払い、ロロは知らず長い間その横顔を見つめていたことに気付いた。
横顔は、気付いているのか、いないのか。ふ、とロロのそれよりずっと濃い紫の瞳を和ませ、笑いかけた。
「……暑いな」
「今日は特別だよ。びっくりするくらい気温が高くなってる」
「参るよな。こんな日に限ってさ」
ふう、と息をついて、ルルーシュは手の甲で軽く額を拭う。ピンクのエプロンが暑さに拍車をかけているのだろう、その胸元をはたはたとはためかせている。その笑みに応えるように、ロロも少し首を傾げて笑ってみせた。
初夏だというのに熱の篭ったままの生徒会室には、その場所に似つかわしくない甘い匂いが漂っている。その匂いの元はルルーシュの腕の中。専用のケースの中で、ふんわりと綺麗な狐色になっている。
ルルーシュが天板ごとテーブルに置くと、奥で黒板に何か書いていた金髪の少女が走り寄り、ルルーシュの肩越しに声をかけた。
「あら、ルルーシュ。もう出来たの?」
「試作品ですけどね。……でも会長、いくらなんだってこの季節にこんなもの作らなくったって」
「こんなものって……」
示すルルーシュの指の先にあるのは、楕円形の焼き菓子。調理室から持ってきたばかりの狐色は、しっとりとつやを帯びて美しい。この焼き菓子が、手のひらサイズのケースに入って店頭に並べられていたなら、皆が口を揃えて思うであろうそれは。
「マドレーヌ?」
「いや、マドレーヌそのものに罪は無いんですけどね」
ルルーシュは再び汗を拭った。両手でようやく抱えられる大きさの天板にのっている狐色は、これまた両手でようやく抱えられる大きさ。軽く20人分はありそうな大きさである。
「バームクーヘンにシフォンケーキ、今回はマドレーヌ。……何で今年の学園祭の候補は焼き菓子ばっかりなんですか」
「いいじゃなーい。去年の巨大ピザは失敗しちゃったし。そろそろ皆もスイーツが食べたくなる頃じゃない?」
「それは皆も、じゃなくて会長が、でしょう」
苦笑を浮かべてルルーシュはエプロンを脱いだ。ひたり、と薄く肌にはりついているシャツに目を奪われ、ロロは慌てて視線を逸らせた。テーブルの端と端で良かったと思う。あまりに近すぎれば、容易くこの視線の行き先を悟られてしまうだろう。
出来たてのマドレーヌの香りを堪能したらしい会長は、楽しそうな仕草で唇に指を当てた。
「でも、さっすが。今回も美味しそう」
「試作品ですからね。味の保障はしませんよ」
「そんなこと言って。バームクーヘンもシフォンケーキも大人気だったじゃない?」
十分の一スケールで作られている試作品といっても、二十人分だ。無論生徒会の中だけで片付けられるわけはなく、校庭で部活動に励んでいる学生達にも配られる。滅多に見ることの出来ないルルーシュのエプロン姿と共に、生徒会副会長の作る試作品は学校中で評判だった。
「てことはやっぱり今回も……」
「あったりまえでしょ!ハイ、これが生徒会の分。残りを持って、行ってきまーす!」
自分達の分だけを切り分けると、天板を持って意気揚々とミレイは生徒会室を出て行った。ケーキナイフを持参していたところを見ると、今回も校庭から狂喜の声が上がるのはそう遠くは無い未来のはずだ。
「あーあ……相変わらずだな、会長は」
「兄さんも、毎回会長の言うこと聞くことないのに」
「なに、俺にとっても料理の腕を磨く良いチャンスさ。家ではなかなか焼き菓子なんて作る機会がないからね」
ふ、と笑うと、ルルーシュはロロの向かいに腰掛けた。テーブルにばらまかれている去年のイベントの写真を見て、頬杖をついてくすくすと笑う。
「大体、どうして何でもかんでも巨大にするんだかな」
「『普通の大きさなんて、作っても面白くないでしょ?』だってさ」
「ま、ここではあの人がルールだからな。仕方ないさ」
気だるそうに頬杖の上で目を閉じる。ルルーシュは暑いのも寒いのも苦手だ。ロロはそれを知っている。勿論、データとしてだ。
「兄さん、暑いでしょ。冷えたハーブティーがあるけど、どう?」
「いいな。もらおうか」
瞳だけで笑って、すぐに閉じる。濃い紫の瞳。
ロロは席を立って、生徒会室の冷蔵庫を開いた。グラスに氷とハーブティを注ぐ。からん、という小気味良い音。シロップを加えてマドラーでグラスをなぞると、暁の空をうんと薄めたような色のハーブティーに、ゆらゆらとシロップが溶けていくのが分かった。
(こんなふうに僕も)
(貴方の記憶に溶けてゆけたら)
あの笑顔もあの瞳も気だるそうな頬杖も、兄としてで良い、自分だけのものであったなら――
こんな感情は、無論、任務には不要であると分かっている。分かっていても、狂おしいほどの思いに駆られる。白い頬も、紫の瞳も、漆黒の髪も、……任務ではなく、気付けば目で追っている自分がいる。
一年前から作られた薄っぺらな偽物の記憶の中にしか己がいないことを、誰よりも己自身が知っているというのに。
軽く首を振る。
毒されるなよ、とヴィレッタは言った。アレは毒だ。決して毒されるなよ。それは、誰よりお前のためだ――
パタン、と冷蔵庫を閉める。
分かっている。何より、ギアスを使えないこの男に、それまでの力があるとは思えない。いや、思えなかった。会って、視線を交わすまでは――
「はい、兄さん。ハーブティー……」
グラスを手渡そうとしたロロは、言葉を止めた。
気だるげな瞳は閉じられたまま、長い睫毛はぴくりともしない。ただ、窓の外から流れ込む緩やかな風に合わせて、さらり、と漆黒が流れる。
小さな呼吸音。
それは、安らかな寝息だった。
(驚くほど無防備な)
(ひと)
かたり、と静かにテーブルにグラスを置く。そっと回り込んで、ルルーシュの背後に立った。己の手のひらを見る。腕を一振りすると、袖口から鋭利なナイフが姿を現した。
それをそっと、ルルーシュの首筋に当てる。今ならギアスを使うまでもない。このナイフの切っ先にあと少し力を込めれば、容易くこの白い肌を赤く染めることが出来る。そうすれば、ルルーシュを救うべくC.C.が現れるだろう――。そして彼女を捕獲する。それこそが己の任務。
(僕はいつだってあなたを)
(殺す)
(ことが出来る)
そう思うと、ふるりと心が震えた。
(そう、僕が)
(僕だけが)
「ん……」
ルルーシュが小さくみじろいで、ロロははっと我に返った。袖をもう一振りしてナイフを仕舞うのと、ルルーシュが気だるげに背を伸ばすのは同時だった。
「ちょっとうたたねしたな。……ん、どうした、ロロ」
「あ、うん」
その目が己の瞳を見る前に、慌てて言葉を紡ぐ。
「兄さん、シャツが汗で濡れてるから、このままだと冷えて風邪引くかなって」
替えのシャツを取りに行こうと思って、と続ける言葉を、ルルーシュは疑わない。「弟」の優しさに、素直に笑みを見せる。
「構わないよ。今日はもうすぐ家に帰るし」
「そう? 兄さん、そういうのすぐ面倒くさがるから。この間もそれで体調崩したでしょう」
「はいはい、分かったよ」
苦笑気味で続ける言葉に、ロロは表情を凍らせた。
「『いつも』言われてることだからな。おとなしく帰ってシャワー浴びるよ」
記憶にはない――はずだ。
書き換えられた記憶は、母と妹、そして『ゼロ』のこと……『ゼロ』として行動した間のすべてのことだと聞いている。
すなわち、ルルーシュに関する資料の中に残されていた、ある一人の少年とのかかわりについて、友人としての関係を除く総てのしがらみはすべて消去されているはずだ。
なのに――
ブラックリベリオン。ルルーシュが記憶を失った日。
その日が近づくにつれ、思い出すはずのない記憶が唇に上る。その回数が日増しに増えていく。
(ほら兄さん、バスタブから出たら髪の毛はちゃんと乾かして。濡れたままで寝たら体調を崩すよ)
(分かってるって。『いつも』言われてることだろ?)
まるで自分を誰かと置き換えてでもいるように。
(……あ、うん。そうだね。『いつも』言ってることだ)
(だろ。ハイ、ドライヤー)
(え?)
渡されたドライヤーにキョトンとすると、
(なんだ、乾かしてくれるんじゃないのか)
まるでそうしないことが不思議だ、とでもいうような視線で、ロロを見る、その、
紫の瞳。
その瞳が――誰を見ていたのか、ロロは知っている。
その『誰か』は、体の弱いルルーシュを気遣い、『いつも』小言を言っていたのだろう。面倒屋なルルーシュの髪を自ら乾かしてやるほどに、その存在を愛しく思っていたのだろう――
それを考えると、いつも心臓が猛り狂ってしまったかのように痛む。記憶の中からその人物の部分だけを抜き出して、真っ黒なクレヨンで幾重にも幾重にも塗りつぶしてしまいたい。
そう、彼の髪の色のような、奥の見えない漆黒で――
「……おい、ロロ?」
ソファに体を沈めたルルーシュが、不思議そうな顔でロロを見上げた。
シャワーから上がったばかりのバスローブ姿。
棚の上のドライヤーを示して、笑む。
紫色のあまやかな瞳で。
「髪、乾かしてくれるんだろ?」
無論、それに笑って応えるすべを、自分はひとつしか持ち得ない。
「……イエス、マイロード」
その絶対遵守の力の持ち主は、何だよそれ、とくすぐったそうに笑った。
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はははははは。
やっちまいましたよ姉さん。(誰)
ルルーシュが可愛すぎて書いてしまいました。
記憶が戻る前のロロルル⇒スザみたいな。ルルにはやっぱり友人以上の存在としてスザクのことを覚えておいていただきたいというか。
反応がめちゃくちゃ怖いわけですが……
ずっと放置していたメールフォームを見つけたので、もしお言葉があればお願いします(ぺこり)⇒
メルフォ
ちなみにラストの台詞がユアハイネスではないのは、ロロにとってルルーシュは皇族というよりも「ロード」だろーな、と。そうあったらいいな、と(笑)